さらにローカルな話題なので、関心のない方はスルーして下さい。
ホテルは素泊まりなので、前日に用意していた朝食を取った後、ふーちゃんと一緒にホテルを出て、神戸駅から別行動を取りました。
ポチ母の実家は神戸に残したまま、両親は平成元年に三重県に引っ越しました。引っ越した後は家を少し手直しして貸家にしました。その後、震災により全壊の認定を受けました。全壊と言っても、家の中の空間が保持された状態で、屋根がずれて青空が見えるような感じだったそうです(私は実際に見ていない)。周りのお家はほとんどぺしゃんこだったそうですが、我が家を貸していた方は無事でした。貸家にするために手直ししたのが良かったのでしょう。
JR神戸駅から新長田で市営地下鉄に乗り換え、板宿に降りました。
実家は板宿商店街の近くにあったので、今日は、商店街、幼稚園、小学校、高校を探検するつもりで、板宿に出て来ました。
市営地下鉄から地上に出ると、、、、、
あれ?山陽電鉄の線路があるはずなのに、、、、
いきなり、ドびつくり!です。
全部地下に潜ってしいまいました。
↓板宿商店街の本通りの入口。 |
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上の写真を撮ったところから横断歩道を渡ると、、、
あぁ、なつかしいI書店。
小学校の時に同じクラスになった子のご両親が経営されていた本屋さんです。
中に入ってみましたが、本人もご両親もそれらしき人は見られませんでした。
小学生の低学年だったか、中学年だったか、お家にクーラーを入れたと言うことで早速それを見に遊びに行ったことがありました。クーラーを入れるのに窓を全部閉めているのが何とも不思議に感じられました。このお家がクーラーを入れたのは、当時他のお家に比べてかなり早かったと思います。 |
商店街の本通りに入ってみました。
入口すぐ左側に「翁寿司」と言う、大変良くはやっていたお寿司屋さんがあり、我が家も良く利用していたのですが、もうありませんでした。
あったら、食べたかったなぁ。 |
板宿商店街は、たくさん枝分かれしています。本通りとセンター街は、お店の多くが変わっていたものの、まだまだ賑やかですが、枝分かれした小さな通りに入ると、多くのお店が閉まっていました。
私が子供の頃は、どこも賑やかでした。細い通りのお店も合わせると、相当な数になります。ここまで大きな商店街も珍しいのではないでしょうか。
コロッケと言えば、ジャガイモがベースですが、子供の頃、ポチ婆が良く買って来たコロッケはタマネギがベースの甘いコロッケでした。それが大好きだったので、まだお店があったら買ってみたいと思ったのですが、どうやら閉めたようです。 |
あぁ、これまた懐かしい。
幼稚園から中学まで一緒だった同級生のお母さんが経営されている洋服屋さんです。昔は、生地がメインでしたが、今では洋服のみです。
中に入ってみると、お母さんがおられました。
昔と全然変わりなく、若々しいまま。
友達は教師になり、結婚して子供が2人いるそうです。
しばらく立ち話をしてお別れしました。 |
本通りと直角に交わるセンター街を歩いてみました。
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あれ~、どこを歩いている時だっけか、、、
さらにさらに懐かしいお店。
お化粧品と用品のお店です。ポチ婆はいつもここで化粧品を買っていました。
子供の頃、母の日の贈り物を時々ここで買っていました。
ここは色々おまけがあります。
占いなんかもおまけでやってることがありました。
ポチ母が社会人になってからのこと、ポチ婆に強く勧められて無理矢理お見合いをさせられました。会ってみてもどうしても好きになれません。しかし、相手の方がこちらの人なので、ポチ婆は私を何とか神戸に呼び戻すことができると思い、このお見合いを強引に進めようとしていました。しかし、私が嫌がっていたところ、ちょうどこのお店の商品を買ったおまけで占い師による占いをやってもらえることになり、このお見合いについて相談したところ、何と!ラッキーなことに、その占い師さんはこの結婚は止めた方が良いと強く言ったため、ポチ婆はあっさりお見合いを断ってくれました。そりゃ、そうでしょ。お見合い中、こちらから質問したことに答えるだけで、自分からは一言もしゃべらず、どこのお店に行くかも自分で決められず、ポチ母が決めたお店に着いてくるような人です。没でしょ!占い師さんによると、その人は相当なマザコンだとのこと。おそらくそれは大当たりだったと思います。 |
本通りの突き当たりまで行くと、専門店が入ったダイエーがありました。
昔からこの方向にダイエーはありましたが、本通りがずいぶん短くなったような気がしました。記憶違いかな? |
本通りを戻り、センター街と交わるところで昔石津文具店があったお店(今はソフトバンク)を背に川の方へ向かって歩いて行きました。
いよいよ、この方向に実家があったところが近くなってきました。 |
川に沿った道がずいぶん広くなっていました。
昔はここをまっすぐ行けたはずなのですが、横断歩道がちょっと左にずれています。
横断歩道と川を渡ってまっすぐ行くと、、、、 |
お米屋さんがあって、そこを右へ曲がると、実家に向かいます。
この電信柱の角の区画がお米屋さんでしたが、もうありません。
家があったはずのところに向かって進んでみます。 |
大きな通りに出ました。
おそらく、この歩道か車道のどこかに我が家がありました。
子供の頃、大きな道を通す計画があったのですが、住民の反対にあい、計画はなくなりました。
そして、震災の後、市がこのあたりの土地を買い上げて、かつて没になった計画の通りに道を通しました。
町並みがそのままで家が変わっているだけなら、まだ懐かしさを感じることができたのでしょうが、町並み自体が変わってしまったので、「懐かしい」と言う感情が沸いてきません。
このまま進みます。この通りを渡った先は坂になっており、我が家の近所の一部だと思われます。 |
やはりそうでした。
ここは良く遊んだ坂です。
坂の両脇のお家の表札を見てみました。いずれも記憶に残っているお家ばかりです。
この坂に沿ったお家はほとんどが昔のままに住んでおられました(建物はみな新しいです)。
さて、この先を行くと幼稚園なのですが、地図をホテルに置いて来たので自信がありません。
でも、行ってみることにしましょう。
坂の突き当たりでちょっと右側を見ると、、、 |
そうそう、こんな細い道がありました。
ここを通って幼稚園に行っていました。
この道を抜けると、、、、 |
すぐに幼稚園がありました。記憶ではもっと遠かったような、、、
育英幼稚園です。
このファンスの向こう側は、、、 |
昔のままの門。
え?この門を今も使ってるの?
それとも他に入口があるのかな? |
幼稚園の周りを歩いてみることに。
幼稚園の敷地の一部が資料館になっているようです。 |
門は古くても建物は新しい。 |
さっきの幼稚園の門とちょうど反対側に回ると、園長先生の旧屋敷がありました。
かなり古い。
けど、立派。
なんだか武家屋敷みたい。 |
幼稚園の正門まで戻り、反対側に歩いて行き、小学4年生の時の友達のお家がまだあるか探してみました。
当時はアパートと言うか文化住宅で、私はほとんど毎日その友達のお家に行き、一緒に宿題をして、予習や復習をして、おやつをよばれて、時に図々しくお風呂にも入っていました。
もうその文化住宅は普通の一戸建てに変わっていました。
もう一度幼稚園方向に戻りました。
そこで、息をのみました。 |
こんもり木が生えているのは幼稚園の敷地です。
ここです。このカーブのところ、何度も何度も夢に出て来た景色。今はゴミ集積所になっていますが、このゴミがなかったら、夢で見る景色と同じです。
覚醒している時には思い出すこともなかった景色、夢の中で何度も思い出していたんですね。 |
八幡神社の案内看板があります。
夢では、このカーブのところから八幡神社へ向かう道に入って行ったり、左側の道へ進んで行ったりしていました。
予定していませんでしたが、八幡神社に行くことにしました。
子供の頃、日曜日には良く父と散歩に行ったり、平日は友達と遊んだりした神社です。 |
親切なことに、こんな案内表示がたくさんありました。
地図もなく、突然行くことになりましたが、迷わずに行けそうです。 |
住宅が立ち並ぶ細い道をうねうねと歩いて行きます。
終始坂です。
そう言えば、神戸って坂の街でした。坂ばっかりです。
こんな道をしばらく歩いて行くと、、、 |
階段が始まりました。
こんな細くて急な階段の両脇には家が建ち並んでいます。 |
神社に続く階段からいくつも枝分かれした階段があります。
こういう枝分かれした階段を上って行くと、小学4年から中学3年まで習ったピアノの先生のお家がありました。
それを探してみたくなりました。
が、階段は相当険しく、暑さもかなりひどい。
1本枝階段を上って、たまたまいた人に聞いたところ、このあたりにそういう名前のお家は聞いたことがないと言うことだったので、それ以上枝階段を上って探すことは止めました。
ピアノの先生はポチ婆と年齢的に大差ありません。
もう高齢の人がこのあたりには住んでいないだろう。と言うか、住めないだろうと思いながら、神社への階段を続けて上って行きました。
すると、杖をついて今にも倒れそうなおじいさんが歩いていて、これまたふらふらしながら歩いているおばあさんに手を引かれながらお家に入って行きました。歩行が満足でない老夫婦がこの階段道の途中にあるお家に住んでいるのです。 |
そしてまた息をのみました。
神社までの階段道も良く夢で見ていた景色であることに気づきました。夢の中で「子供の頃、こんなところを歩いていたなぁ。この上で遊んでいたなぁ。」と思っていたんです。 |
つづき7月25日更新
あれぇ~、こんなに遠かったっけぇ??と思いながら、汗だくで階段を上り、予想よりもはるかにたくさん階段を上ってやっと八幡神社に着きました。
もっと広かったような、、、、
多分、昔はなかった物がいくつか建ったため、以前より狭く感じられるのだと思われます。 |
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八幡神社から何カ所か上に繋がる階段がありました。
子供の頃は、さらに上に登って八幡山で遊んでいました。
こんなところまで、ほとんど毎日登って来ていた時期があったのです。
登るのが苦しかったと言う記憶はありません。 |
下りる前に板宿の街を見下ろしました。
やはりダイエーが目立っています。
小さい頃には商店街しかなく、いつだったかダイエーができ、ニチイができ、そのほかにも出来た記憶が。
ダイエーだけは残り、あとは徐々につぶれていきました。 |
また階段を下りていきます。
勾配がきつく、サンダル履きだったので、足の指に負担がかかり、皮が引きつりながら歩いているうち、半年以上かかってくっついた右足親指の怪我の部分が、、、、、、
あぁ、また傷口が開き、血が出てきました。そして、痛いです。
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登ってくる時に見たヨロヨロ老夫婦が入って行った家の前にバイクがありました。
バイクはどうやってこの階段を上って来たのでしょう? |
ダイエーまで戻って、おうどん屋さんで昼食。
冷房の効いたお店で冷やしうどん。
めっちゃ、美味しかったです。
生き返りましたぁ。
予定外の八幡神社登山を終え、さぁ急いで長田高校へ行かねば、同窓会に間に合わない。 |
ダイエーを出て、板宿商店街の本通りを右手に見て、板宿小学校に向かいます。 |
昔の面影が全くない板宿小学校。
ポチ母が通った小学校です。
高校に行くにはこのまま右へ行くのですが、正門前に行ってみました。 |
もう昔の正門がどうだったのか思い出せません。前の記憶がおぼろげだったり、消えてしまったりしているところに新しい記憶を上書きすると、もう前の記憶は二度と思い出すことはないのでしょうね。
正門の前に文房具屋さんがありました。 |
が、文房具屋さんはもうなく、人が並んでいるおうどん屋さんがありました。 |
正門からさっきの通りに戻って裏門へと行く途中、少年野球の保護者さん達が校庭に入ろうとしていたので、中に入らせて頂き、写真を撮りました。 |
向こうに見える校舎は、ポチ母が小学3年生だった時に入っていた校舎。
そう言えば、この校舎も良く夢で見ていました。
夢で見たことは覚醒すればすぐに忘れてしまいますが、こうやってまた思い出すものなんですね。子供の頃に過ごしたところが夢に良く出ていたことを改めて認識しました。 |
裏門に向かい、裏門を背中にして真っ直ぐさかを上って行きます。 |
記憶では、坂を登り切ったところを左側に少し進むとバスの停留所があったと思っていたのですが、実際には右側にありました。
市営バスの五位ノ池停留所から11番のバスに乗って、県立長田高校に通っていました。
時刻表を見てみると、あと2分くらいでバスが来ます。
高校時代は、朝、なかなかバスが来ず、ひどい時は30分くらい待ったかな?
やっとバスが来たと思ったら、5台くらいズラズラと並んで来たと言うことがしょっちゅうでした。
もちろん遅刻です。ポチ母は遅刻の常習犯でした。とにかく貧血がひどくて朝なかなか起きられませんでした。赤血球を中心として、血液全体が薄く、一度鼻血を出すとハンカチがびしょびしょになるまで止らなかったりしていました。白血球も少なくて、しょっちゅう風邪を引き、風邪引き=発熱だったので学校を休むことも多かったです。
高校よりも幼い頃は視力も弱く、視力矯正のために三宮の眼科に通っていた時期もありました。
後で分かったことですが、視力が弱かったのも、貧血がひどかったのも、好き嫌いが激しかったことによる栄養失調が原因だったのです。
何でも食べるようになって、自然に視力も上がり、大学に入ってから貧血も治りました。
ただ、なぜだか今でも白血球だけは低いです。 |
時刻表通りにバスが来ました。
乗ってみました。
写真左は、育英高校の前を通っているところです。
懐かしい!
育英幼稚園に通っていた頃、一度、育英高校に来て、野球部のお兄さん達とフォークダンスを踊った記憶があります。どういう催しだったのか覚えていませんが、とにかくお兄さん達がすごく優しくて、フォークダンスがめっちゃ楽しかったぁ。
当時、兵庫県代表で甲子園に行くのは、育英高校とか滝川高校とか三田学園が多かったです。
さっき、八幡神社から下りてダイエーに向かう手前で滝川高校を見ましたが、新しく立派な校舎が建っていました。 |
長田小学校前で下りて、この陸橋を渡って道の反対側へ渡ります。
部活を終えると、この道の反対側で友達とバイバイしたのですが、一度道を挟んでバイバイした時にタクシーが止ってしまったことがありました。 |
陸橋の上からバスが来た道を眺めてみました。
周りの景色はすっかり変わっています。 |
陸橋を渡ったら、こんな坂を下りていきます。
かなり勾配のきつい坂です。
部活の友達がこの坂で痴漢に遭ったことがありました。
露出狂の人でした。
その人がある部分を指差したのですが、友達はド近眼で良く見えなかったので、近くまで行って見てしまったそうです。リボンを巻いた局部だと分かった時、「きゃぁ~~~~っ」と叫びながら逃げたとか。その話し、未だに覚えています。 |
校舎が見えて来ました。
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校門まで行ってみました。
校門の前は駐車場になっていました。
昔はここに下宿が建っていました。ポチ母があこがれていた体育の先生がその下宿に住んでおられました。その懐かしい下宿はもうありません。 |
無断では入ってはいけないと書かれていいますが、勝手に入って行きます。 |
校舎は全く昔の面影をとどめていません。
同じ敷地内に、県立長田高校(ポチ母が通った高校)、長田商業高校、青雲高校の3校があります。
先生らしき人がいたので、勝手に入らせてもらう旨を伝えました。
話をしてみると、長田高校の30回生で星雲高校の教師をされているそう。何を話したのか覚えていませんが、卒業生同士(ポチ母は29回生)、少し話が弾みました。高校の校舎にはとても見えず、大学のキャンパスみたいだと言ったら、「長田だからお金をかけてもらえたのだと思う。」とのこと。ずいぶん変わってしまいましたが、図書館だけは昔のまま残っているそうなので、行ってみることに。 |
立派な校舎を抜けて行くと、、、 |
ありました。
でも、記憶にありません。
おそらく、ポチ母は図書館を一度も利用したことがなかったのではないかと、、、、(高校時代勉強しなかったので)
友達は、ここで彼氏と一緒に勉強したりしたそう。友達ならこれを見て懐かしがるだろうなぁ。 |
中をのぞいてみました。
かなりレトロです。 |
校舎の中をちょっと探検。 |
めっちゃ、おしゃれ! |
昨年の選抜甲子園、21世紀枠で長田高校が出場した時の記念の品々。
残念ながら1回戦で負けましたが、とても良い試合でした。
この話は、同窓会でも出ました。
バスに乗って甲子園まで応援に行った人もいました。
ポチ母は行けなかったから募金をほんの少し。
試合は東京の病院の待合室で見ていたのですが、本当に良く頑張っていたので、ホロホロ来てしまいました。 |
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校舎を出ると、神撫台グランドに上がる陸橋がありました。 |
陸橋の上から見たテニスコート。
前とコートの位置が違ってる。 |
陸橋を進んで行くと、野球部や陸上部などの輝かしい成績の記録が飾ってありました。 |
グランドに出ました。
本当に体育の厳しい高校でした。中学から高校に上がって初めての体育の時間、1周およそ500mあるグランドをいきなり2周。1kmなんて、年に2回の体力測定の時でしか走ったことがありません。
それ以降、毎時間1周ずつ増えて行きました。まず体育の時間の最初はランニングです。だいたい50分の半分は走っていました。これが生徒にはかなりの負担だったので、体育の時間の前の授業では、終わり頃にみんなソワソワしていました。それを察した先生が「次の時間は体育か?じゃ、ちょっと早いけど終わろうか。」と気を利かしてくれたこともありました。3年の3学期の体育は、全部ランニングでした。長田高校卒業生はこれにより根性が鍛えられたと良く言われています。 |
グランドから下りる途中で校舎を見たところ。 |
校庭に戻ると、さっきの青雲高校の先生が話をしに来てくれました。
ダンス部がポカリスェットのCMに応募したところ採用され、今日夜7時から放送される「鉄腕ダッシュ」(日本テレビ系)の中のどこかでそのCMが流れるとのこと(長田の生徒はほんのちょっとだけ)。そのCMの初回が今日だそうです。同窓会なので見られませんが、You
Tubeで探してみましょう。
←校庭のここで踊っているそうです。 |
長田高校を出て電車でJR神戸まで戻ります。
高校へはバスで来て上から下りてくるルートで通っていたので、下へ下りて電車に乗るルートはめったに使ったことがなく、道のりは記憶ゼロです。
生徒が歩いていたので後ろを着いて行くことにしました。 |
長田商店街に出て来ました。 |
阪神電車の高速長田駅に着くのだと思い込んでいたのですが、市営地下鉄の新長田駅に着きました。
その方がJR神戸に戻りやすかったので、結果的に迷わずに済みました。
時間に余裕がある訳ではなかったのですが、昨日カメラの電池の充電を忘れていて、電池切れになりそうなので、ホテルに戻って少しでも充電することにしました。 |
時間ギリギリと言うか、数分遅れで同窓会会場に到着。
組別にテーブルに座ります。ポチ母の3年4組は、昔のままの人がほとんどでした。
30年ぶりの神戸。
そして神戸での同窓会は初めて。
本当に懐かしい限りです。 |
続き7月26日更新
先生3人を含めて同窓会の参加者は98人でした。
最初に先生の挨拶。
3人目のK先生。お元気そうではありましたが、さすがに40年経つとずいぶん変わられていました。数学の先生で担任でもって頂いたことはありませんが、いつもどんべレベルのポチ母が一時だけすごく数学を勉強した時期がありました。それで短期間ですが、成績が上がったことがあり、その時以来、大学入試を終わるまでずっと気に掛けて頂いて、大学入試の合格発表の後、「入試の成績が来てますから見にいらっしゃい。」と言って下さいました。一時期を除いては成績は低く、担任でもなかったのに、ずっと気に掛けて下さったその優しさが今でも忘れられません。どうぞ、どうぞ、元気に長生きなさって下さい。心からそう思いました。ちょっとウルウルきました。 |
地理のN先生の音頭で乾杯。
N先生、40年前とほとんど変わらず。
二次会の時、生徒に囲まれて先生か生徒か分からなくなり、「あの人誰?」と友達に聞きそうになってしまいました。 |
1クラスずつ前に出て代表者が挨拶。
写真は今回幹事の3組。
マイクを持っている男性の向かって左側に見える紺色のワンピースの女性はミス神戸になった方です。
今も全く変わっていませんでした。
|
私達4組は次回幹事組なので、最後に壇上に上がりました。
マイクの前でしゃべっているMくんはまるでジュリー(沢田研二)のような出で立ちですが、ジュリーとは全く違う雰囲気ではっちゃけていました。
会場は大いに盛り上がり、、、、 |
かなりウケていました。
次回、2年後、うまく行くといいね。
と、言うことで、、、、
30年ぶりに神戸に帰り、
初めて同窓会に参加した結果、
いきなり次回の幹事の一員になってしまったのでしたぁ。
あぁぁ~~
なんてこと。 |
最後に校歌を歌いました。
覚えてなかったので歌えなかったのですが、再びウルウルきてしまいました。
なんて、良い校歌なんだろう! |
この後、同じホテルの別の場所に移動して二次会。
貸し切りだったのですが、とにかく人の声が大きく響いて隣の人の声も聞こえにくい状態でした。
ここで、タコがある女性を連れて来て「誰だと思う?」って聞くのです。
全くわからなかった。
「きーさん」と言われて、思わずキャァ~と叫んでしまいました。中学からの友達で、土田よしこの「つる姫」などのまねをしたり、つる姫の「ちゃかぽこ」と言う歩き方をやったり、バカばっかり一緒にやっていた友達でした。
少女漫画雑誌「マーガレット」に連載されていた「つる姫」ってご存知ですか?
いろんな人とお話して、とても懐かしい時間を過ごしました。
そして、ふーちゃんとホテルへ。
ホテルになだれ込む予定だった幹事のあっちゃんは、幹事の反省会に出てから遅れてホテルに来ることになりました。 |
ホテルには9時半過ぎに到着。お風呂に入ろうとしている時、思ったより早く10時過ぎくらいにあっちゃんなだれ込み。
普通におしゃべりしていたところ、気がついたら夜中の2時で、全員びつくり!
急いで寝ることに。
その前から、ふーちゃんは半分寝ていた。
ベッドは120cm幅だったので2台をくっつけるとそれなりの広さに。
3人十分寝られました。
プチ修学旅行みたい。
ホテルは、宿泊者以外を部屋に入れる場合、ベッドや寝具の追加がなければ、ほんの少し料金を追加するだけで入れます。「予め言ってくれたら私もお泊まりの準備をしてきてなだれ込みたかったぁ」と言う人もいて、次回の同窓会はどのような状態になるのでしょうか?
翌朝、部屋で簡単な朝ご飯を食べた後、最終チェックアウト時間よりも早くホテルを出て、みんなで三宮の大丸に寄って「フロインドリーブ」と言うお店の「大みみ」と言うパイをお土産に買いました。ふーちゃんに教えてもらったお土産ですが、これはこれは美味しくて、神戸らしいお土産です。
以上、30年ぶりの神戸と初めての同窓会の報告でした。
長くなりましたが、最後までおつきあい頂き、ありがとうございました。 |